存在とは

PCを組んでパーツを変えたりしていくうちにマザボとCPUメモリ以外はほとんど交換されてしまったのですが、この作業をしていくうちにふと思った事があります。

よく人の意識はどこに存在するのか?という議論があります。
意識の例えとは違うのですが、例えばAさんの腕が切れても、腕がAさんというわけではないですし、基本的には脳みそから意識は発生しているのではないかとも思うのですが、脳みそがAさんなのかと言うとそれも違う気がするのです。

また、腕や臓器を移植したからと言ってAさんではなくなるというわけでもありません(臓器移植をした場合に、性格が変化するなどの事例はあるようですが…)

厳密に言えば人の細胞も常に入れ替わっていますし、10年も経てば、物体としては新陳代謝により完全に別の存在と言ってもいいかもしれません。

私が昔に使っていたパソコンも一緒で、亡くなった兄に組んでもらったものをパーツをとっかえひっかえ使っていました。最初から使い続けているのは最早マザボとCPUとメモリだけだったのですが、かと言ってそのPCに対する思い出や愛着が無くなったわけではありません。パーツが8割以上変わってしまっても思い出が8割減ってしまったわけではありません。寧ろ長く使って来た分愛着は増えています。

存在とは、それと過ごして来た思い出、記憶に依存するものなのかなと思うわけです。

何が言いたいのかよくわかりませんが、そんな事をふと思いました。

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